日蘭交流の歴史
About Historical Relations

幕開け - オランダ船漂着
1598 年6月、ロッテルダムの港では5隻の船が長い航海の途に就こうとしていました。目的地はモルッカ諸島、別名スパイス・アイランド。そこで胡椒など様々なスパイスを調達し、更にその先にある銀の王国“日本”を目指すことになっていたのです。
今から数えること400年前、1隻のオランダ船が初めて日本に漂着。1598年6月27日にロッテルダム港を出港した5隻の船団のうち、生き残ったたった1隻、それがリーフデ(慈愛)号。1600年4月19日、ついに異国の地(日本)に到着したのです。
その日、豊後の国さしふ佐志生(大分県臼杵市)の沖はいつもと様子が違っていました。疲れ切った姿の巨大な帆船が、錨を下ろし横たわっているのです。最初は110人いた乗組員も、航海を終えた時にはたった24人が生き残るのみとなっていました。
その中には、後に八重洲さんとして知られるヨーステン・ファン・ローデンスタイン、そして三浦按針ことイギリス人のウイリアム・アダムスがいました。
*リーフデ号の船尾木像は、オランダの有名な哲学者エラスムスをかたどったもので、これは現在、東京国立博物館に展示されています。
時の権力者徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示し、ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよう命じられ、ポルトガル語の通訳を介して取り調べを受けることになりました。彼らは、地図や航海術、造船術の知識、さらには西洋諸国の戦況に関する情報など非常に役立つものを持っていたため、幕府は彼らを重用することとなったのです。そして領地や屋敷、幕府の相談役としての地位を彼らに与えました。
彼らの幕府に対する忠誠がもたらした最大の成果は、オランダに発行された朱印状、つまり通商許可証を受け取ったことにあります。1609年、オランダ船が平戸に入港し日蘭貿易が本格的に始まり、日本とオランダの関係が幕開けを迎えることとなったのです。


日蘭関係の萌芽
鎖国時代の1641年から1853年まで、この200年の間、オランダは唯一の西洋国として無二の地位を確立しました。
オランダは、自国はもとよりヨーロッパ各国の化学、医学、知識、産物、兵器などを、長崎湾に浮かぶ扇型の人工島“出島”を通じて日本に紹介し、それと引換えに、日本の品物や知識を西洋の世界に輸出し、富を築いたのです。両国にとって出島は、“新しい世界への窓”以上の大切な意味を持っていました。
これ以降の日蘭関係は大きく 五つの時代に分けることができます。
東インド会社が平戸の商館で活躍した1609年から1641年、出島時代の1641年から1853年、明治維新前から第二次世界大戦前の1853年から1940年、第二次世界大戦中の1940年から1945年、そして戦後から現在に至る五つの時代です。
平戸オランダ商館時代 (1609-1641)
徳川家康を初代将軍とし、徳川幕府が成立したのは1603年。既に家康は、貿易を許可する朱印状をオランダに与えていました。ただ朱印状がようやくオランダ側の手に渡ったのは1605年、オランダ東インド会社の艦長マテリーフでした。
VOC(オランダ東インド会社)は1602年に設立、アジア各地に散らばっていた小規模なオランダの貿易会社を一つの強大な組織にまとめたのが東インド会社です。多くの船を一斉に集め商船団を組み、世界の貿易を一手に掌握することを目指していました。また、世界で最初の株式会社としても知られています。
東インド会社は単なる貿易会社ではなく、オランダ政府が外国政府と通商関係を結ぶ権限も与えられていました。二回目に発行された朱印状では、幕府はオランダが日本のすべての港に入港できる許可を与えており、貿易を強く奨励する意が読み取れます。
*この朱印状は現在、オランダのハーグ国立中央文書館に保管されています。
1609年、最初の東インド会社の公式船団2隻が平戸に到着しました。オレンジ公マウリッツ王子からの国書が受け渡され、日本とオランダとの貿易が初めて正式に認められたのです。
朱印船貿易がさかんになる一方で、幕府は“南蛮人”および“紅毛人”ら外国人との接触に対し、にわかに規制を強化し始めました。
1614年、 幕府はキリシタン禁令 を発布し日本で布教活動をする宣教師や一部の有力なキリシタンをマカオに追放、禁令は厳しく実行され、多くのキリシタンが殉教の死を遂げることになります。1636年、ポルトガル人は出島に住居を定められ、彼らの出島での暮らしは、島原の乱においてキリシタン反乱軍幇助の容疑で国外追放を命じられる1639年まで続きました。
ポルトガルに雨が降れば、オランダにも小雨が降る。
これは、あるオランダ人艦長の名言です。
ポルトガル人が追放され出島は主人を失い、オランダ人がいよいよ出島に移転させられることになったのです。オランダ人は1641年、平戸を後にし長崎港に浮かぶ出島に居を移しました。以来、日本との接触が許された西洋国は唯一オランダのみとなりました。


出島時代(1641-1853)
出島の面積は約 1万5千平方メート ル、アムステルダムにあるダム広場とほぼ同じ広さ。オランダ人は日本にとって世界への窓としての役目を担うようになっていました。西洋の科学や書物がオラン ダ人の手を通じて日本に紹介され、“蘭学”として花開いたのもこの頃です。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは間違いなく、蘭学の発展に寄与した最も有名な人物です。シーボルトは日本人の学者に、西洋の医学や薬学、その他文化的に価値の高い知識を教授し、たくさんのオランダ語が日本語に借用されるようになりました。その中でも“ビール”は、日本人の生活に最も溶け込んでいるオランダ語と言えます。
ただ幕府は日本人と外国人との接触に対し、次第に制限を強化しました。オランダ人も厳しい規則に縛られ生活していたのです。
例外は、“江戸参府”だけで、この時ばかりはオランダ人も出島の外に出ることが公式に認められていました。また、オランダ船が入港する8月から10月の間は、出島の住人も忙しい日々を送っていました。貿易船から積荷を下ろし、荷を振り分けて、商人に売り渡す。そして船は再び日本の品物を満載し、東インド会社の豪商のもとに去って行く。故郷からの便りが届くのもこの時期でした。
オランダ商館が出島に移転して以来、平戸時代ほどの利益を上げることはできなくなっていました。出島では、商品の値段は事前に決められ、売れ残った商品はすべて持ち帰らなければならなかったのです。
確かに規制は厳しくありましたが、そんな中でも東インド会社はある程度の収益を上げており、 生糸と引換えに金、銀、銅、樟脳などを日本から輸出していました。漆器や陶磁器、茶も、日本からバタビアやヨーロッパに送り出していたのです。
18世紀に入ると、日本とオランダのそれぞれの政治的な理由から、出島での貿易が不振に陥りました。幕府は、新たな規制を相次いで設け、それらはオランダ側の利益を圧迫し、また同じ頃、ヨーロッパではフランス革命が勃発し、一時は負け知らずだったオランダも制海権を失うほどになっていたのです。
1795年から1813年の間、出島に入港できたオランダ船は僅か数隻。その結果、出島に居住していた東インド会社の商館員たちは収入源を断たれていました。商館長ヘンドリック・ドゥーフはやむをえず、食料や衣服などを日本人の好意に頼っていました。しかし、彼はここで時間を無駄に過ごしてはいません。彼は蘭和辞書の編集を手がけ、日本の役人とも良好な関係を保り続けていました。

蘭学 - オランダに学ぶもの
16世紀の万国共通語はポルトガル語であり、オランダ人と日本人が最初に会話をしたときもポルトガル語の通訳が介在していました。ただポルトガル人が日本から追放されると、次第にオランダ語が日本における第一外国語の地位を獲得し、オランダ語を使えることが通訳や翻訳者にとって不可欠の条件となったのです。
“阿蘭陀通詞”と呼ばれた通訳は世襲制に基づいており、多い時にはその数150人にのぼりました。彼らは通商、外交、そして文化交流の事務役をつとめたのです。また、阿蘭陀通詞は西洋科学を広める上でも重要な役割を果たしました。通詞の能力が向上するにつれて、西洋の国々が非常に高い水準の科学的知識を有していることを日本の為政者たちが認識し始めたのです。
1720年、八代将軍吉宗はキリスト教関係以外の洋書の輸入禁制を緩和。それから間もなく学術洋書が日本に輸入されるようになりました。オランダ語を通じ て学ぶ学問は“蘭学”と総称され、杉田玄白など高名な学者が卓越した成果をおさめました。
玄白は1771年から1774年にかけて、ドイツ人クルムスの『解剖 図譜(Ontleedkundige Tafelen)』を翻訳し、『解体新書』として世に出ることに。
※『解体新書』の翻訳で直面した様々な苦労を、杉田玄白は『蘭学事始』にまとめています。
この2編の書物が、日本の蘭学塾における必須の書となったのです。
シーボルトが始めた長崎の鳴滝塾、江戸の芝蘭堂、そして緒方洪庵が創立した大坂の適塾など が、蘭学塾として名を馳せるようになり、そこでは医学はもとより、天文学や数学、植物学、物理学、化学、地理、用兵術など様々な学問が幅広く学ばれました。
日本に西洋科学の知識を伝えることが、図らずも東インド会社商館員の重要な役目となりました。そこでオランダ側は、学術専門の商館員を日本へ送り、カスパル・スハムベルゲンの医学は、カスパル流として日本人に踏襲されました。ヘンドリック・ドゥーフは、フランソワ・ハルマの蘭仏辞典に基づいて、蘭和辞典『ハルマ和解』を監修し、さらには詩をたしなむ程日本語も上達しました。コック・ブロムホフは日本の工芸品や日常品などを収集しましたが、最も有名な“オランダ”の学者と言えば、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトをおいて他には存在しません。
1823年に来日したフォン・シーボルトは、日本の国家や民族、文化についてできる限り多くの情報を収集するという使命を帯びていました。植物学、医学、薬学 に博識だったシーボルトは、日本において最も尊敬を集めた東インド会社の商館員となり、長崎近郊の土地を授かり鳴滝塾を創立しました。そこで患者を治療し、医学や生物学を教え、植物園を構えたのです。多くの学者や患者、武士と接触できる立場にあったため、日本の生活にまつわる様々な品物を収集することも可能でした。
シーボルトは薬草に関する知識を授けた礼に、日本人蘭学者からある物を受け取っています。それは葵の紋が染め付けられた着物。また秘密裏に、国外持ち出し禁止の日本地図も入手していました。
これらは当時、外国人が所有することを禁じられていたものばかりであり、これが発覚し、シーボルトは 1829年にスパイ容疑で国外追放及び再入国禁止の処罰を受けることになります。“シーボルト事件”として知られるこの事件によって、彼は妻と娘おいねを残して日本を去らねばなりませんでした。後においねは日本最初の女医として、素晴らしい功績を残すこととなります。
*シーボルトが日本で収集した膨大なコレクションは、現在オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されています。

江戸参府 -オランダ人、日本を旅する
毎年行われた江戸参府は、オランダ人と日本人の役人が公式に面会する機会を与えました。
日本各地の大名と同様出島のオランダ商館長も江戸に上り、将軍に謁見するよう命じられ、そして、風説書と呼ばれる諸外国の政情を著した報告書の提出が義務づけられていました。また、江戸で将軍に謁見するには、数々の高価な贈物が必要とされました。遠眼鏡、西洋医学の道具や薬、大砲、地球儀、さらにはシマウマやラクダ、サルなど南国の珍しい動物なども贈られています。西洋科学の書物は特に喜ばれました。
1638年に将軍に贈られた銅製のシャンデリアは、外交問題の解決に一役買ったのです。この大燈篭の御礼に、将軍はオランダ人に高価な絹の着物を下賜されました。
*この大燈篭は現在も、徳川家康を奉る日光東照宮に保管されています。
“阿蘭陀”美術
オランダ人の出島での生活や江戸参府の様子は、日本人絵師を大いに刺激しました。
出島の暮らしぶりを描いた長崎絵は長崎を訪れる旅行者の最適な土産物となり、オランダ人の姿が陶器の絵柄にもなったのです。オランダから運ばれてきた絵画や絵本なども、絵師に創作のアイデアを与えており、司馬江漢は一度も見たことのないオランダの風景を描いています。(ただ、その絵にはオランダに無いはずの山が描かれています。)
川原慶賀は、フォン・シーボルトの個人的なアシスタントとし て、19世紀初期の出島の様子を絵筆で克明に記録しています。
*長崎絵やオランダ人の絵柄をあしらった陶器、その他オランダにまつわる工芸品は、長崎県立美術博物館、長崎市立博物館、神戸市立博物館で見ることができます。
花の時代の終わり - 江戸時代末期
19世紀は世界の政治情勢が大きく変化した時代。オランダは海の覇権を失い、代わりにアメリカとイギリスが勢力を拡大していました。アヘン戦争 (1839-1842)でイギリスは中国に対し、国際貿易港として5つの港を開港し、香港を割譲するよう要求したのです。
日本を追放されオランダで研究生活を送っていたフォン・シーボルトは、オランダ国王ウィレムII世にこう進言しています。
「将軍に直ちにアヘン戦争の結果を知らせ、鎖国を撤廃するよう促すべきである」、と。
ウィレムII世がシーボルトの助言に従い書いた国書は1844年、正式な儀式を経て長崎奉行を通じ幕府に手に渡されました。ただ幕府はオランダ国王の配慮には感謝したものの、助言に従うことは拒否しました。
オランダはドンケル・クルチウスを出島の商館長として送り込み、1852年、アメリカが武力で日本に開国を迫ろうとしている、と将軍に諫言(かんげん)の言葉まで伝えました。にもかかわらず幕府は最後まで耳を貸すことなく、1853年のペリーの黒船来航を迎えてしまったのです。

日本の近代化
1853 年のペリーの黒船来航を境に日本は鎖国を捨て、急速な近代化に向かうこととなりました。それから50年、日本は封建社会から近代的な西洋デモクラシーの社会へと急変しました。オランダ人はそれまでの特権的な役割は失いましたが、両国の親密な関係に変わりはありませんでした。
開国当初、日本と諸外国との公式な折衝はすべてオランダ語で行われていました。つまり日本人とアメリカ人との最初の会話にも、オランダ語が仲介役を果たしていたのです。
しかし、世界の列強の力関係が変化していることを察知した幕府は、アメリカとヨーロッパに使節団を派遣し、と同時に近代化の礎を築くため、西洋の専門家や学者を日本に招きました。造船、海軍、医学、薬学、土木の分野で、オランダ人は日本の近代化を支援することになったのです。
ペリー来航の直後、将軍はドンケル・クルチウスにオランダから蒸気艦を派遣するよう要請し、オランダ政府は、日本に軍艦スンビン号を献上しました。この船は後に“観光丸”と改名されます。
航海術や砲術、更には造船術の教育を目指して、長崎に海軍伝習所が設立されました。スンビン号の艦長だったファビウスと乗組員が最初の教師として教壇に立ち、あの勝海舟も生徒として名を連ねました。幕府は観光丸の成果を見届け、2隻目の蒸気艦の発注を決定します。この船ヤパン号(のちの“咸臨丸”)が、勝海舟をアメリカに運んだ船です。
ヤパン号に乗って、エンジニアのハルデスと、海軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトが来日。ハルデスは日本で最初の船舶修理工場と造船所を設立しました。これが後に三菱重工長崎造船所へと発展するのです。また、ポンペ・ファン・メールデルフォールトは、フォン・シーボルトの足跡に続き、長崎に最初の西洋式病院を建設しました。彼の業績はA.F.ボードワン、C.G.マンスフェルト、K.W.ハラタマ、A.C.J.ヘールツに受け継がれ、 日本の近代的な医学教育体系の発達に大きく寄与したのです。
洪水から日本を守る
日本政府が招聘したオランダの水工技術者の業績は、今でも姿を残しています。
山が多い日本の国土で繰り返される洪水を食い止めるため、 彼らオランダ人はこの挑戦に立ち向かいました。また、近代的な港湾の建設にも力を入れるため、C.J. ファン・ドールンが最初のオランダ人技術者として日本に招かれたのです。日本政府の要請を受けて、彼はさらに数名の技師を日本に呼び寄せました。こうして来日したのが、ヨハネス・デ・レイケです。
デ・レイケは学位こそありませんでしたが、実地で申し分のない技術を磨いており、A.G.エッシャーも仲間の一人でした。
*A.G.エッシャーは世界的に有名な画家 M.C.エッシャーの父であり、画家のエッシャーは父が日本から持ち帰った浮世絵に多大な影響を受けたと言われています。
ヨハネス・デ・レイケの招聘は、日本にとって最高の選択となりました。彼は日本に30年以上滞在し、土木局長、つまり内務省事務次官級の役人にまで昇進したのです。おそらく日本において、高級官僚として認められた唯一の外国人です。
デ・レイケの卓越した技術は、大阪の淀川、そして木曽三川の治水工事で存分に発揮されました。木曽三川の河口付近では、流れの異なる3本の川が合流しており、洪水が頻繁に起こっていましたが、ヨハネス・デ・レイケは、防波堤や水制、さらに土壌の浸食を防ぐため木を植えるといった工法を用いこれを食い止めたのです。更に彼は大阪港、長崎港、横浜港など日本の近代港湾の設計にも携わりました。
この時期、合わせて12人のオランダ人水工技師が来日し、日本人の生活を洪水から守るために力を尽くしたのです。
オランダからの技術者招聘のほかにも、明治政府は日本の学者をオランダへ派遣していました。西周や津田真道はライデン大学に学び、福沢諭吉もオランダに遊学しました。
日本の開国を契機に、日本とオランダは正式な外交関係を結びました。1859年、横浜に最初のオランダ領事館が置かれ、後に東京に大使館が開かれ、1868年には神戸にオランダ領事館が設置されました。しかしながらインドネシアにおける日蘭の武力衝突は、長年にわたる両国の友好の歴史を以ってしても残念ながら回避できなかったのです。
歴史の闇(1942-1945)
第二次世界大戦は、長きにわたる日蘭関係において、一瞬の断絶をもたらした最初で唯一の出来事です。
当時オランダの植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、胡椒、スパイスなど天然資源が たいへん豊富でした。しかし1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入したのです。2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏、そして4万人ものオランダ兵が捕虜として収容所に連行されました。
日本軍のインドネシア占領は終戦と共に終わり、インドネシアは独立を果たすのです。


日本とオランダの現在(1945-)
1952年、オランダは日本との国交を正式に正常化に戻しました。しかし、江戸時代から明治にかけてオランダが果たした特別な役割はもはや過去のものとなり、多くの日本人にとってオランダはヨーロッパ諸国のうちの一つになってしまいました。
それでも1950年代後半、日本とオランダの関係は経済、文化、科学技術の分野で、新しいスタートを迎えました。KLMオランダ航空が日本に就航し、フィリップスは 松下電器産業の成功の基礎作りを支援しました。オランダの切り花が輸入されるようになり、日本人の暮らしに色鮮やかな花を添えました。
1960年代に入ると、アムステルダム のコンセルトヘボウ・オーケストラが日本人の音楽への関心を呼び起こし、ファン・ゴッホやレンブラントの名画がたくさんの観衆の心を奪いました。蘭学の息吹は、それぞれの大学で脈々と引継がれています。
1983年、日本とオラ ンダの関係は長崎県西彼町のオランダ村開園を機に、大きな飛躍の時を迎えました。オランダ風車が最初に建てられ、それに続いて東インド会社の帆船やオランダ風の建物が姿をあらわし、オランダ製品と共にたくさんの日本人観光客を呼び寄せたのです。ゴーダチーズや木靴などが人気を集め、オランダの絵本作家ディック・ブルーナが創作した“Nijntje”(ナインチェ)は人気を博し、日本ではうさこちゃんやミッフィーちゃんとして親しまれました。
世代を問わず多くの日本人の心を掴んでいるオランダ村が成功をおさめたため、拡張計画が打ち出されました。それが1993年、佐世保市にオープンしたハウステンボスです。
オランダの足跡は、目だけでなく耳でも感じることができます。
現在日本語に残っているオランダ語からの借用語は、主に鎖国時代に その起源を遡ることができます。
多くの日本人はそうとは気付かずに、オランダ語の言葉を日々使っているのではないでしょうか。ビール、コー ヒー、ガラス、ピストル、オルゴール、おてんばなどは、オランダ語の音をそのまま真似たものです。また、病院や盲腸、炭酸などオランダ語の意味を漢字に転換したものなどもあります。
オランダの足跡が日本人の日常生活にどれだけ色濃く残っているか、これらはほんの一例に過ぎません。
オランダと日本はいつも近い存在であり続けているのです。
<画像注釈>
*オランダ人、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、時の将軍徳川家康に顧問として仕える。日本ではその名も“八代洲(やよす)”八重洲として知られ、将軍よりこの地域に住居を与えられていた。「ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦1600年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまま日本に住みつき、徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言をする役目についた。その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲になった。ここに彼を偲んで記念像を置く。」(銅像記載文章より)
*昭和55年4月22日、オランダ王国ファン・アフト首相来日の際、同首相よりオランダ王国政府に代わり、日本国政府に対し寄贈されたもの。本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、1600年4月19日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着。ヤン・ヨーステンが乗船していた。