EU農業政策:オランダの役割
About Start Of CAP


EUの共通農業政策(CAP:Common Agricultural Policy)を展開する上でオランダが果たす役割について
オランダ:世界第 2 位の農産物輸出国
今日、オランダは農産物の生産と輸出に成功している国として知られています。実は、オランダは米国に次ぐ世界第2位の農産物輸出国なのです。九州と同等の国土面積を持つとはいえ、160万ヘクタールの農用地面積のうち、実際に農業生産に適する面積は日本の3分の1に過ぎません。
オランダはもともと貿易立国です。北、もしくは北西は北海、その向こうはイギリス、東はドイツ、南はベルギーに挟まれ、フランスにも近いオランダは、昔から大規模な消費市場との交易の機会が多くありました。
また、海に面し、ライン川やマース川などヨーロッパの主要な河川の河口地域に位置するオランダは、インフラが整っていました。
オランダ人は積極的に世界へ飛び出していきました。オランダを出発した商船は、1600年にはるかかなたの日本に漂着します。
鎖国時代、日本との交易を許された唯一の西洋人であるオランダの「夷狄」のために、特別な人工島:出島が作られました。しかしながら、農産物、特に果物や野菜のような生鮮品の貿易は、昔も今もヨーロッパの近隣市場を中心に行われています。オランダの生産量の約3分の2は、欧州の市場に出荷されているのです。
シッコ・マンスホルト: 農業の近代化、欧州連合の創設者
世界有数の農産物輸出国としての成功は、野菜、果物、乳製品、花、球根の生産効率が非常に高いことが大きな要因です。
オランダの農業・園芸の近代化は、第二次世界大戦後、深刻な食糧不足と迫りくる経済危機を背景に急速に進みました。ここで重要な役割を果たしたのが、シッコ・レーンデルト・マンスホルト(1908〜1995年)というオランダ人でした。
マンスホルトは農家出身であり、戦時中はオランダのレジスタンスの一員として、戦争末期にオランダ全土を襲った飢饉の惨状を目の当たりにしていました。この間、約2万人が飢えで亡くなったという説もあります。
マンスホルトは、違法な食糧配給を組織的に行っていたこともあり、オランダが解放された後は、ヨーロッパに戦争と困窮の両方が再び起こることを防ぐために精力的に活動することを誓っていました。そしてその約束を守ったのです。
戦後政府の農相を何度も務め「ノーモア・ハンガー」のモットーのもと、機械化、合理化、大規模な土地整理を進め、国民の食糧生産を安定化させました。
マンスホルトは、生産効率をさらに高めるために、教育、研究、技術革新への投資も活発化させました。オランダやヨーロッパでは、マンスホルトは欧州共通農業政策(CAP)の基礎を築いた重要な役割を果たしていることで、知られています。
マンスホルトは、ヨーロッパが自給自足できるようになり、すべての人に手頃な価格の食料を安定的に供給し、農家がきちんとした収入を得られるようにするべきだと強く信じていました。そのために彼は、生産・価格支援(最低価格保証)、輸出補助、近代化促進補助を組み合わせた超国家的な(国を超える)政策を打ち出しました。
この計画はやがて欧州連合(EU)の前身である欧州経済共同体(EEC)のもとで、初めての真なる共通政策となるのです。
マンスホルトは、1958年から1972年まで初代欧州委員会の初代農務委員を務め、今日では欧州連合(EU)創設の父の一人として認知されています。
駐日オランダ王国大使館
農務参事官
デニーズ・ルッツ