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日蘭交流の歴史 4 / 蘭学



蘭学 - オランダに学ぶもの
16世紀の万国共通語はポルトガル語であり、オランダ人と日本人が最初に会話をしたときもポルトガル語の通訳が介在していました。ただポルトガル人が日本から追放されると、次第にオランダ語が日本における第一外国語の地位を獲得し、オランダ語を使えることが通訳や翻訳者にとって不可欠の条件となったのです。
“阿蘭陀通詞”と呼ばれた通訳は世襲制に基づいており、多い時にはその数150人にのぼりました。彼らは通商、外交、そして文化交流の事務役をつとめたのです。また、阿蘭陀通詞は西洋科学を広める上でも重要な役割を果たしました。通詞の能力が向上するにつれて、西洋の国々が非常に高い水準の科学的知識を有していることを日本の為政者たちが認識し始めたのです。
1720年、八代将軍吉宗はキリスト教関係以外の洋書の輸入禁制を緩和。それから間もなく学術洋書が日本に輸入されるようになりました。オランダ語を通じ て学ぶ学問は“蘭学”と総称され、杉田玄白など高名な学者が卓越した成果をおさめました。
玄白は1771年から1774年にかけて、ドイツ人クルムスの『解剖 図譜(Ontleedkundige Tafelen)』を翻訳し、『解体新書』として世に出ることに。
※『解体新書』の翻訳で直面した様々な苦労を、杉田玄白は『蘭学事始』にまとめています。
この2編の書物が、日本の蘭学塾における必須の書となったのです。
シーボルトが始めた長崎の鳴滝塾、江戸の芝蘭堂、そして緒方洪庵が創立した大坂の適塾など が、蘭学塾として名を馳せるようになり、そこでは医学はもとより、天文学や数学、植物学、物理学、化学、地理、用兵術など様々な学問が幅広く学ばれました。
日本に西洋科学の知識を伝えることが、図らずも東インド会社商館員の重要な役目となりました。そこでオランダ側は、学術専門の商館員を日本へ送り、カスパル・スハムベルゲンの医学は、カスパル流として日本人に踏襲されました。ヘンドリック・ドゥーフは、フランソワ・ハルマの蘭仏辞典に基づいて、蘭和辞典『ハルマ和解』を監修し、さらには詩をたしなむ程日本語も上達しました。コック・ブロムホフは日本の工芸品や日常品などを収集しましたが、最も有名な“オランダ”の学者と言えば、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトをおいて他には存在しません。
1823年に来日したフォン・シーボルトは、日本の国家や民族、文化についてできる限り多くの情報を収集するという使命を帯びていました。植物学、医学、薬学 に博識だったシーボルトは、日本において最も尊敬を集めた東インド会社の商館員となり、長崎近郊の土地を授かり鳴滝塾を創立しました。そこで患者を治療し、医学や生物学を教え、植物園を構えたのです。多くの学者や患者、武士と接触できる立場にあったため、日本の生活にまつわる様々な品物を収集することも可能でした。
シーボルトは薬草に関する知識を授けた礼に、日本人蘭学者からある物を受け取っています。それは葵の紋が染め付けられた着物。また秘密裏に、国外持ち出し禁止の日本地図も入手していました。
これらは当時、外国人が所有することを禁じられていたものばかりであり、これが発覚し、シーボルトは 1829年にスパイ容疑で国外追放及び再入国禁止の処罰を受けることになります。“シーボルト事件”として知られるこの事件によって、彼は妻と娘おいねを残して日本を去らねばなりませんでした。後においねは日本最初の女医として、素晴らしい功績を残すこととなります。
*シーボルトが日本で収集した膨大なコレクションは、現在オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されています。
おはようございます。
本日こちらは雨で、少し肌寒い日です。
どうぞよろしくお願いいたします。
