The Netherlands Food Style
日蘭交流の歴史 7 /
日本とオランダの現在(1945-)



<画像注釈>
*ヤン・ヨーステンの銅像:
オランダ人、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、時の将軍徳川家康に顧問として仕える。日本ではその名も“八代洲(やよす)”八重洲として知られ、将軍よりこの地域に住居を与えられていた。
「ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦1600年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまま日本に住みつき、徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言をする役目についた。その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲になった。ここに彼を偲んで記念像を置く。」(銅像記載文章より)
日本とオランダの現在(1945-)
1952年、オランダは日本との国交を正式に正常化に戻しました。しかし、江戸時代から明治にかけてオランダが果たした特別な役割はもはや過去のものとなり、多くの日本人にとってオランダはヨーロッパ諸国のうちの一つになってしまいました。
それでも1950年代後半、日本とオランダの関係は経済、文化、科学技術の分野で、新しいスタートを迎えました。KLMオランダ航空が日本に就航し、フィリップスは 松下電器産業の成功の基礎作りを支援しました。オランダの切り花が輸入されるようになり、日本人の暮らしに色鮮やかな花を添えました。
1960年代に入ると、アムステルダム のコンセルトヘボウ・オーケストラが日本人の音楽への関心を呼び起こし、ファン・ゴッホやレンブラントの名画がたくさんの観衆の心を奪いました。蘭学の息吹は、それぞれの大学で脈々と引継がれています。
1983年、日本とオラ ンダの関係は長崎県西彼町のオランダ村開園を機に、大きな飛躍の時を迎えました。オランダ風車が最初に建てられ、それに続いて東インド会社の帆船やオランダ風の建物が姿をあらわし、オランダ製品と共にたくさんの日本人観光客を呼び寄せたのです。
ゴーダチーズや木靴などが人気を集め、オランダの絵本作家ディック・ブルーナが創作した“Nijntje”(ナインチェ)は人気を博し、日本ではうさこちゃんやミッフィーちゃんとして親しまれました。
世代を問わず多くの日本人の心を掴んでいるオランダ村が成功をおさめたため、拡張計画が打ち出されました。それが1993年、佐世保市にオープンしたハウステンボスです。
オランダの足跡は、目だけでなく耳でも感じることができます。
現在日本語に残っているオランダ語からの借用語は、主に鎖国時代に その起源を遡ることができます。
多くの日本人はそうとは気付かずに、オランダ語の言葉を日々使っているのではないでしょうか。ビール、コー ヒー、ガラス、ピストル、オルゴール、おてんばなどは、オランダ語の音をそのまま真似たものです。また、病院や盲腸、炭酸などオランダ語の意味を漢字に転換したものなどもあります。
オランダの足跡が日本人の日常生活にどれだけ色濃く残っているか、これらはほんの一例に過ぎません。
オランダと日本はいつも近い存在であり続けているのです。

<画像注釈>
*デ・リーフデ号の像:
昭和55年4月22日、オランダ王国ファン・アフト首相来日の際、同首相よりオランダ王国政府に代わり、日本国政府に対し寄贈されたもの。
本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、1600年4月19日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着。ヤン・ヨーステンが乗船していた。
