日蘭交流の歴史 3 / 出島時代 ~The Netherlands Food StyleVol.9

The Netherlands Food Style

日蘭交流の歴史 3 / 出島時代

日蘭交流の歴史 (on The Eating Style)

日蘭交流の歴史 (on Kitchen Garden)

 

 

 

 

 

出島時代(1641-1853)

 

出島の面積は約 1万5千平方メートル、アムステルダムにあるダム広場とほぼ同じ広さ。オランダ人は日本にとって世界への窓としての役目を担うようになっていました。西洋の科学や書物がオラン ダ人の手を通じて日本に紹介され、“蘭学”として花開いたのもこの頃です。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは間違いなく、蘭学の発展に寄与した最も有名な人物です。シーボルトは日本人の学者に、西洋の医学や薬学、その他文化的に価値の高い知識を教授し、たくさんのオランダ語が日本語に借用されるようになりました。その中でも“ビール”は、日本人の生活に最も溶け込んでいるオランダ語と言えます。

 

ただ幕府は日本人と外国人との接触に対し、次第に制限を強化しました。オランダ人も厳しい規則に縛られ生活していたのです。
例外は、“江戸参府”だけで、この時ばかりはオランダ人も出島の外に出ることが公式に認められていました。また、オランダ船が入港する8月から10月の間は、出島の住人も忙しい日々を送っていました。貿易船から積荷を下ろし、荷を振り分けて、商人に売り渡す。そして船は再び日本の品物を満載し、東インド会社の豪商のもとに去って行く。故郷からの便りが届くのもこの時期でした。

 

 

オランダ商館が出島に移転して以来、平戸時代ほどの利益を上げることはできなくなっていました。出島では、商品の値段は事前に決められ、売れ残った商品はすべて持ち帰らなければならなかったのです。
確かに規制は厳しくありましたが、そんな中でも東インド会社はある程度の収益を上げており、 生糸と引換えに金、銀、銅、樟脳などを日本から輸出していました。漆器や陶磁器、茶も、日本からバタビアやヨーロッパに送り出していたのです。

 

18世紀に入ると、日本とオランダのそれぞれの政治的な理由から、出島での貿易が不振に陥りました。幕府は、新たな規制を相次いで設け、それらはオランダ側の利益を圧迫し、また同じ頃、ヨーロッパではフランス革命が勃発し、一時は負け知らずだったオランダも制海権を失うほどになっていたのです。

1795年から1813年の間、出島に入港できたオランダ船は僅か数隻。その結果、出島に居住していた東インド会社の商館員たちは収入源を断たれていました。商館長ヘンドリック・ドゥーフはやむをえず、食料や衣服などを日本人の好意に頼っていました。しかし、彼はここで時間を無駄に過ごしてはいません。彼は蘭和辞書の編集を手がけ、日本の役人とも良好な関係を保り続けていました。

 

 

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