日蘭交流の歴史 2 / 日蘭関係の萌芽と平戸オランダ商館時代 ~The Netherlands Food StyleVol.8

The Netherlands Food Style

日蘭交流の歴史 2 / 日蘭関係の萌芽と平戸オランダ商館時代

日蘭交流の歴史 (on The Eating Style)

日蘭交流の歴史 (on Kitchen Garden)

 

 

 

 

日蘭関係の萌芽

鎖国時代の1641年から1853年まで、この200年の間、オランダは唯一の西洋国として無二の地位を確立しました。
オランダは、自国はもとよりヨーロッパ各国の化学、医学、知識、産物、兵器などを、長崎湾に浮かぶ扇型の人工島“出島”を通じて日本に紹介し、それと引換えに、日本の品物や知識を西洋の世界に輸出し、富を築いたのです。両国にとって出島は、“新しい世界への窓”以上の大切な意味を持っていました。

 

これ以降の日蘭関係は大きく 五つの時代に分けることができます。
東インド会社が平戸の商館で活躍した1609年から1641年、出島時代の1641年から1853年、明治維新前から第二次世界大戦前の1853年から1940年、第二次世界大戦中の1940年から1945年、そして戦後から現在に至る五つの時代です。

 

 

平戸オランダ商館時代 (1609-1641)

徳川家康を初代将軍とし、徳川幕府が成立したのは1603年。既に家康は、貿易を許可する朱印状をオランダに与えていました。ただ朱印状がようやくオランダ側の手に渡ったのは1605年、オランダ東インド会社の艦長マテリーフでした。

 

VOC(オランダ東インド会社)は1602年に設立、アジア各地に散らばっていた小規模なオランダの貿易会社を一つの強大な組織にまとめたのが東インド会社です。多くの船を一斉に集め商船団を組み、世界の貿易を一手に掌握することを目指していました。また、世界で最初の株式会社としても知られています。

東インド会社は単なる貿易会社ではなく、オランダ政府が外国政府と通商関係を結ぶ権限も与えられていました。二回目に発行された朱印状では、幕府はオランダが日本のすべての港に入港できる許可を与えており、貿易を強く奨励する意が読み取れます。
*この朱印状は現在、オランダのハーグ国立中央文書館に保管されています。

 

1609年、最初の東インド会社の公式船団2隻が平戸に到着しました。オレンジ公マウリッツ王子からの国書が受け渡され、日本とオランダとの貿易が初めて正式に認められたのです。

 

朱印船貿易がさかんになる一方で、幕府は“南蛮人”および“紅毛人”ら外国人との接触に対し、にわかに規制を強化し始めました。
1614年、 幕府はキリシタン禁令 を発布し日本で布教活動をする宣教師や一部の有力なキリシタンをマカオに追放、禁令は厳しく実行され、多くのキリシタンが殉教の死を遂げることになります。1636年、ポルトガル人は出島に住居を定められ、彼らの出島での暮らしは、島原の乱においてキリシタン反乱軍幇助の容疑で国外追放を命じられる1639年まで続きました。

 

ポルトガルに雨が降れば、オランダにも小雨が降る。

 

これは、あるオランダ人艦長の名言です。

ポルトガル人が追放され出島は主人を失い、オランダ人がいよいよ出島に移転させられることになったのです。オランダ人は1641年、平戸を後にし長崎港に浮かぶ出島に居を移しました。以来、日本との接触が許された西洋国は唯一オランダのみとなりました。

 

 

 

 

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