日蘭交流の歴史 6 / 日本の近代化、洪水から日本を守る ~The Netherlands Food StyleVol.12

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日蘭交流の歴史 6 /

日本の近代化、洪水から日本を守る、歴史の闇(1942-1945)

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日本の近代化

1853 年のペリーの黒船来航を境に日本は鎖国を捨て、急速な近代化に向かうこととなりました。それから50年、日本は封建社会から近代的な西洋デモクラシーの社会へと急変しました。オランダ人はそれまでの特権的な役割は失いましたが、両国の親密な関係に変わりはありませんでした。
開国当初、日本と諸外国との公式な折衝はすべてオランダ語で行われていました。つまり日本人とアメリカ人との最初の会話にも、オランダ語が仲介役を果たしていたのです。
しかし、世界の列強の力関係が変化していることを察知した幕府は、アメリカとヨーロッパに使節団を派遣し、と同時に近代化の礎を築くため、西洋の専門家や学者を日本に招きました。造船、海軍、医学、薬学、土木の分野で、オランダ人は日本の近代化を支援することになったのです。

 

ペリー来航の直後、将軍はドンケル・クルチウスにオランダから蒸気艦を派遣するよう要請し、オランダ政府は、日本に軍艦スンビン号を献上しました。この船は後に“観光丸”と改名されます。
航海術や砲術、更には造船術の教育を目指して、長崎に海軍伝習所が設立されました。スンビン号の艦長だったファビウスと乗組員が最初の教師として教壇に立ち、あの勝海舟も生徒として名を連ねました。幕府は観光丸の成果を見届け、2隻目の蒸気艦の発注を決定します。この船ヤパン号(のちの“咸臨丸”)が、勝海舟をアメリカに運んだ船です。

 

ヤパン号に乗って、エンジニアのハルデスと、海軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトが来日。ハルデスは日本で最初の船舶修理工場と造船所を設立しました。これが後に三菱重工長崎造船所へと発展するのです。また、ポンペ・ファン・メールデルフォールトは、フォン・シーボルトの足跡に続き、長崎に最初の西洋式病院を建設しました。彼の業績はA.F.ボードワン、C.G.マンスフェルト、K.W.ハラタマ、A.C.J.ヘールツに受け継がれ、 日本の近代的な医学教育体系の発達に大きく寄与したのです。

 

 

洪水から日本を守る

日本政府が招聘したオランダの水工技術者の業績は、今でも姿を残しています。
山が多い日本の国土で繰り返される洪水を食い止めるため、 彼らオランダ人はこの挑戦に立ち向かいました。また、近代的な港湾の建設にも力を入れるため、C.J. ファン・ドールンが最初のオランダ人技術者として日本に招かれたのです。日本政府の要請を受けて、彼はさらに数名の技師を日本に呼び寄せました。こうして来日したのが、ヨハネス・デ・レイケです。
デ・レイケは学位こそありませんでしたが、実地で申し分のない技術を磨いており、A.G.エッシャーも仲間の一人でした。
*A.G.エッシャーは世界的に有名な画家 M.C.エッシャーの父であり、画家のエッシャーは父が日本から持ち帰った浮世絵に多大な影響を受けたと言われています。

 

ヨハネス・デ・レイケの招聘は、日本にとって最高の選択となりました。彼は日本に30年以上滞在し、土木局長、つまり内務省事務次官級の役人にまで昇進したのです。おそらく日本において、高級官僚として認められた唯一の外国人です。
デ・レイケの卓越した技術は、大阪の淀川、そして木曽三川の治水工事で存分に発揮されました。木曽三川の河口付近では、流れの異なる3本の川が合流しており、洪水が頻繁に起こっていましたが、ヨハネス・デ・レイケは、防波堤や水制、さらに土壌の浸食を防ぐため木を植えるといった工法を用いこれを食い止めたのです。更に彼は大阪港、長崎港、横浜港など日本の近代港湾の設計にも携わりました。
この時期、合わせて12人のオランダ人水工技師が来日し、日本人の生活を洪水から守るために力を尽くしたのです。

 

オランダからの技術者招聘のほかにも、明治政府は日本の学者をオランダへ派遣していました。西周や津田真道はライデン大学に学び、福沢諭吉もオランダに遊学しました。

日本の開国を契機に、日本とオランダは正式な外交関係を結びました。1859年、横浜に最初のオランダ領事館が置かれ、後に東京に大使館が開かれ、1868年には神戸にオランダ領事館が設置されました。しかしながらインドネシアにおける日蘭の武力衝突は、長年にわたる両国の友好の歴史を以ってしても残念ながら回避できなかったのです。

 

 

歴史の闇(1942-1945)

第二次世界大戦は、長きにわたる日蘭関係において、一瞬の断絶をもたらした最初で唯一の出来事です。
当時オランダの植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、胡椒、スパイスなど天然資源が たいへん豊富でした。しかし1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入したのです。2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏、そして4万人ものオランダ兵が捕虜として収容所に連行されました。

日本軍のインドネシア占領は終戦と共に終わり、インドネシアは独立を果たすのです。

 

 

 

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